いろんなものを世界中で観てきました。大体10回のうち1回は心から感動できる。
この前イスタンブールで、ベリーダンスのショウを観たのですが、最後に舞台をしめる歌い手がとてもうまい。ダンスなのに、歌、しかもマイウェイなんかでしめる。ああいうところで下積みをし、出ようという人たちがわんさといるのですから、しぜんとうまくなる。
日本でいうと、津軽三味線や沖縄三味線などで人が育つのと同じです。まだ民謡酒場みたいなところがたくさんあって、客と先輩の耳が肥えているから、芸が鍛えられるのです。
自分ではチャンピオンだというつもりでいても、長年聞いているお客さんからみると、まだまだ足らないところがある。そうやってののしられながら磨かれていく。
三味線を早く弾けるだけでびっくりする客では困る。それだけの技術を前提として、音色が変わっていく瞬間というのを客は知っています。そのレベルになるから、みんな聴きにいくのです☆☆。
歌も同じでしょう。現地のジャズなどでも、単に歌っているのを聴きたいということではない。そういう瞬間が起こるから聴きにいくのです☆。
昔は私も、そんな実験をした。マイルスデイビスと竹山さんのを両方かけて、それが5、6分に一回くらい、音がうなったように、不思議な瞬間が生まれるときがある。初めての人たちにはわからないのですが、少しやっている人なら案外とわかる。同じところで感じるものがある。そういうものが、音楽や歌の感動のベースだと思います。
単に感動するだけであれば、ブロードウェイミュージカルの、一つの声だけでも感動した。まして二つの声が合わさるようなものには、深く感動を覚えます。彼らの歌が確かなものの上に成り立っているのがよくわかります。
ステージを見ていても、こちらが仕事としてみるのを忘れたときが、きっと感動しているときなのだと思います。裸の自分になって、歌い手もいなくて、声だけが働きかけてくる瞬間というのが、ここでも何度かはあったのです。
そう考えると、旅行中に歌を聴いて感動しやすいのは、頭をはずして聴いているからかもしれません。もちろん、そんな思惑を飛ばす力が歌い手の力であって欲しいものです。
ロックの感動というのは、また少し違う。ギターの音がうなって、声との掛け合いなど、いろんなものとコラボレートし、リピートしたところにある。すでに知っている曲を生で聴けたという感動などは、歌そのものとしての感動とはやや違う。曲がすごくいい、生で聴くと、さらによい。また涙がぽろぽろこぼれるという、そういう感動もある。
もう一つ私には、日本のフォーク歌手なども、歌など嫌いだけど泣かされてしまうという、日本人の感性みたいなものがあるようです。
私が泣かされたのは、かぐや姫の解散コンサート、気づいたら、ファンと同じ気持ちになって泣いているのです。いや、ファンだけじゃなかったでしょう。そういうことはあります。ステージが音楽や歌を超えてしまう。人間というのは一所懸命にやっている姿に弱い。必死に頑張っている姿にも感動してしまうものです。
不思議なのは、いまだに美空ひばりさんです。私は30代過ぎてから、彼女と本当の意味で出会ったつもりですが、追悼でのテレビを見たりすると、何曲か胸に迫ってくる。小さい頃から天才的に歌がうまかったのはわかるし、若い頃はあまり見たいとも思っていなかった。でも見始めると、聴き入ってしまう。ハリーベラフォンテが、彼女の歌を聴いて泣いたということも、ことばを超えたところにあるものが伝わったということは感じます。
ここのステージでも感動してしまったものの半分は、こいつはここまで頑張ってるのかという涙でした。そういうものはいくら除こうとしても、みんなも同じように、心を打たれているのです。本当にうまいものだったら、そんなに涙なんて出ないのではないかという気もします。こうして、ステージのレベルでみるものが、昔から比べるとどこもかなり甘く受け入れられるようになってきていると思います。
昔は公的だったステージがどんどん私的になって、第三者に対して問うていたものが、身近な人に共感を得ようとするものになってきています。私は、そんなところには、もうのっかれない。この先に何があるかは、わかりません。