A.最初の頃、ヴォイトレ以前、役者や歌手の体づくりとして、よく行われていました。今でも、続けているところもあります。邦楽などでも取り入れているそうです。
私が述べたいのは、こういうものをやってもみないで否定する風潮です。確かに、発声の器官そのもの、喉や共鳴部では関係ありません。しかし、 この分野において、当時の声(ヴォイトレですから)のレベルを上回っていない現状では、理論や科学的にと否定しても空しいのです。楽に安全に早くという、目先の目的と、生涯の一芸の目的に声を使うこととは、全く(※引用B)別なのです。
私としては、安易に声とヴォイトレとヴォイストレーナーというところの利害が一致して、そういう言論が目立っているように思います。もちろん、時代とともに発達し発展していくから、うさぎ跳びなど、トレーニングの定番だったものから禁じられたものもあります。
また、昔の精神的に強いていたやり方、スパルタ○○のようなものに戻せとはいえません。何よりも、昔と現代の日本人は心身ともに異なっているし、一般の人、客の感覚も異なってきた。ゆえに、表現に問われることも違ってきたわけです。ですから、歌もせりふも声も、求められることが変わってきたのも当然です。
そのことと、歌や声が第一線に出ていた時代の価値観を、どう考えるのか。また、日本を超えた世界との差、あるいは違いを、どう考えるのか。など、いろんな視点から述べてきたわけです。ともかくも、一般論は拡散するだけなので、個別に対処するしかないのです。その人の必要に応じ、足りないものとして、心身のことは扱うべきです。ですから、トレーニングとしてメニュだけでのよし悪しではないと思います。懸垂や縄跳びなどがあってもよいでしょう。(♯)