発声と音声表現のQ&Aブログ

ヴォイストレーニング専門の研究所内外の質問と、トレーナーと専門家のQ&Aブログです。 あくまで回答したトレーナーの見解であり、研究所全体での統一見解ではありません。また、目的やレベル、個人差により、必ずしもあなたにあてはまるとは限りません。参考までにしてください。 カテゴリーから入ってみると便利です。 【rf :他に詳しく答えているのがあるので、それを参考にしてくださいという表記です。】 引き続き、ご質問もお待ちしています。できるだけ順次とりあげていきます。

Q314.今まで先生にとって、奇跡の瞬間みたいなものはありましたか。また、歌の創造性とは何でしょうか?

 今は自分に対してもあまりに厳しくなってしまったということもありますが、外国のヴォーカリストと接して、彼らはこういうふうに声を扱っているのかということがわかっても、それが自分の中でしか動かない。それを他人に伝えるのは、とても難しいことです。要は、100の力を200にしても、結局200しか出てこないし、500にしても、500しか出てこない。ところが、一流は違う。

彼らの中には10の力で1000のことを見せられるかのような人もいます。日本では、美空ひばりさんくらいでしょう。私はファンではないのですが、いくつかの曲のフレーズの中で、彼女の歌に対してすごく創造的に感じることがあり、そのことを、他の歌い手には感じられないという部分があるのです。もちろん、他の歌手のライブでも起こっていることだと思います。

でも大体の場合、歌い出しの部分を聴いたら、最後までわかってしまうのが普通だと思います。それを越えた何かというのが、一つの奇跡なりマジックであり、プロというのはそれを起こす人です。まさに奇跡のような瞬間ですね。

 世の中には、プロでなくても、歌がうまく歌える人はたくさんいます。でも、プロというのは常に感動を与えないと、お客さんは来てくれなくなる。ステージの構成などの力でよりも、一曲の中で、そのことが確実に起こせる人が、私の考えるプロということです。

もちろん、歌い手は必ずしもそこだけの魅力ではありません。今の漫才とかお笑いの人の中でも、形が壊れ、そのときに奇跡的な瞬間が生まれることがあるのです。

絵やアート作品なども、アイデアとかひらめきでやっているものというのは、必ずしもその作品が優れているということではない。しかし、着想で優れているのです。既存のアートという枠を壊している。建築物などでも同じようなことがいえます。

音楽でも、こういう世界は究極の部分に表われるのです。ほとんどの歌の場合は、歌の中で問題を片付けようとしている人がほとんどです。それは、誰かの歌を誰かのように歌っているということです。

 私は以前、ロックの本を書いたときに、日本のロックをやっている人からいろいろといわれました。しかし、そういう人がやっていることというのは、向こうのロックバンドのコピーで、世の中に何ら影響力を持っていない。そういう創造性がないところに、応答しようもありません。ロックのコピーは、私の中ではロックではなく、カラオケです。

とことん、突き詰めるなら、死んだあとに何が残るのか、国を越えてどこまで通用するのだろうという見方をするとよいと思います。価値がないからダメとはいいません。しかし、歌をやるということはどういうことなのかということを、歌の中で考えても仕方がないような気がします。

現代の歌というのは、すべての人にとって、自分の日記とかエッセイみたいなものにしかすぎないかのようです。歌といっても、ウェブ上で日記を公開したら、それが作品になってしまうというのと同じことです。その中でアーティストになるということは、レベルが高いというだけではない。今はいろんな形がありますから、簡単に判断できなくなってきたということです。

ミュージシャンということでいえば、技術的な面でもはっきりするのですが、そういう感覚が客の方に働かないことには、たぶんそれ以上の作品にはならないでしょう。

 よく歌の世界を文章と比べてみるのです。私は小さい頃から文章を書いていたので、その才能に比べて、音楽の才能も判断しています。うまく歌える人は、音大生でもサラリーマン、OLでもたくさんいます。しかし、音楽の中で奇跡は起きない。ところがミュージシャンというのは、そういうことを音の中で起こしているということがわかるのです。

彼らは100しか考えないし、100のことしかやっていませんが、そこに1000の世界を持ってこれるのです。そういう意味では、その才能をどう見抜いていくかということになってきます。その中の「何か」ということで絞ってみていくと、私にもみえます。

私には、もう一つそれをみる才能、つまり、聴く力にすぐれていることがわかりました。それがプロの中でヴォイストレーナーとして成り立っている理由でしょう。

皆、私の声を求めにきますが、それなら歌手や役者をみればよい。プロは声でなく、感覚を求めにきます。歌として全体をみていくよりも、このフレーズのこの一瞬とか、このリズムの中のこういう動きとか、そうやって部分的にみていく。それがわかっている人というのは、集約して作品にしています。そこにまず、鋭い聴覚、耳を求めたいと思うのです。

それは話でも同じでしょう。私の話は決してうまいとは思わないのですが、例えば4時間くらい話していると、その中で自分を助けてくれる、何かが訪れる瞬間があるのです。私が音楽や歌が日本の中であまり好まないのは、形をセッティングし、それにそってやらなくてはいけない不自由さを感じるからです。