Q.昔と今の声の違いは。
A.昔は、労働歌とか、漁船に乗ってソーラン節とか、仕事に声が関わっていたわけです。今はそうでない。歌は違うところからおろしてくるわけです。
仕事で使われる声と日ごろ出している声は、むしろ今の若い子のほうが同じですね。芯のない浅い声で喋って、そのまま歌にもっていき、ラップ風にやっている。昔のような音色がないといっても、彼らにとっては意味がわからないし、意味もないと思います。どれもその人の声です。
でも、古今東西、世界中のいろいろな声を聴いたら、何か特色ないというようになるかもしれません。言葉とかリズムとか、総合的にです。私がもの足りないと思うのもそこです。彼らのを聞いても言葉とかリズムがいい悪いとかではなくて、演奏という形での音が聞こえてこない。たしかに一所懸命さは伝わるのですが。
Q.向うのをカバーしようと思って、日本人は繊細にやりすぎていると思いませんか。
A.日本語では疲れてしまうという部分がありますね。イタリアやドイツに行くと、声が出るのに、日本に帰って、日本人と日本語をしゃべる生活に戻ると声が出ない。声楽家もほとんどそんな感じです。向うでの響かせ方や母音は日本よりも深い。日本語の中で、どこまで向うのものができるかは難しい。そこで深まっていけば、同じことになると思うのですが。
Q.イタリア語の母音の深さを日本語の母音で出したら、あきらかにおかしくないのですか。
A.声のポジショニングの問題です。「あいうえお」の日本語のくり方と、体からしゃべる外国語の使い方の差があります。向こうは空気が乾燥していて響きやすい。共鳴を自ずと集めているのです。外国語で歌うのだったら、そうでなくてはいけない。そこにひとつの情感で作品をつくっていかなければいけません。
声が荒れたりしないのであれば、使えばいいと思います。使っていくこと自体が鍛えることにもなる。役者の世界では、「これだけ使え、稽古しろ」でもっとやる。それでうまくいかないなら特訓。声楽の世界では発声のポイントを絞り込む。「日常の声は抑えて、演奏のためだけに声を使え」と。
Q.ヴォイトレの注意は。
A.声は消耗品と考え、一日の中で、これだけ使ったら、その休ませなければいけません。それはクラシックという特殊な部分で言っていることですが、他の分野でも当てはまります。
Q.声を深くしていけば、黒人のような深さになれるわけではないのですか。
A.黒人もいろいろいます。そこに近づける人もいるし、難しい人もいますが、今よりはよくなるでしょう。
Q.ウイスパーにすると喉の力が抜けると思うのですが。
A.ウイスパーヴォイスは、声帯の締めも抜きかねないし、疲労する人もいるので、あまりお勧めしていません。基礎というより表現の応用の位置づけです。
Q.高音では、体のほうに負わせていったら、部分的なリラックスはできるわけですか。
A.リラックスして、高いところにひびきを集めるといって、集まる人は集めてやっていけばいい。けれど、集まらなければ、開放して、声というものがちゃんと体に宿ってくるようにし、そうなっていたら、そこから集めるのです。そういう条件づくりでやりやすくなるはずですね。
Q.なぜ、歌で、先生がやったとおりにやってみようとしてもできないのですか。
A.最低限の声の共鳴はいります。声をしっかりと出せることが、有利な条件になりますね。声でしか伝わらないものは、音が出なければどうしようもないわけです。ヴォーカルの才能があっても、声がない人は、ヴォーカルとして制限されます。
Q.声は、たくさん出すほどよいのですか。
A.日常的に声をたくさん出せる環境を持つことはいいことです。ただ、一日に3時間も5時間も声を出すのがいいのかというと、できるだけ、声が出せる感覚と体を日常の時間でキープすると考えたほうがいい。
Q.たくさん寝た方がよいのでしょうか。
A.たとえば、10時間以上寝ると、体がダラーッとなって起きないですね。スポーツをやろうとしてもきついのでは向かない。体が弛緩しきっているわけです。そういう状態で、ベストは出せません。逆に3時間しか寝ていなくて、体が疲れきっていると、声もうまく動かないでしょう。