発声と音声表現のQ&Aブログ

ヴォイストレーニング専門の研究所内外の質問と、トレーナーと専門家のQ&Aブログです。 あくまで回答したトレーナーの見解であり、研究所全体での統一見解ではありません。また、目的やレベル、個人差により、必ずしもあなたにあてはまるとは限りません。参考までにしてください。 カテゴリーから入ってみると便利です。 【rf :他に詳しく答えているのがあるので、それを参考にしてくださいという表記です。】 引き続き、ご質問もお待ちしています。できるだけ順次とりあげていきます。

Q.先生の判断は、どういうものなのですか。

Q.先生の判断は、どういうものなのですか。

A.たとえ相手が素人であっても、そのフレーズを伝えたら死んでもよいというくらいの覚悟を決めてやったら、何も厳しくありません。私は、わずかな可能性もポジティブに捉えて聞くからです。100のうち、90を捨て、10を磨き、またその9を捨て、1を磨く、その繰り返しです。

 

Q.歌のよしあしは、どう判断するのでしょう。

 

A.詩人の谷川俊太郎さんと対談したときのことです。同じことを聞かれました。私は「同じ歌を80人にア・カペラで歌ってもらって、もう一度聴きたいと思う歌は、いいレベルです」と答えました。

 

これは実際に、私が研究所の中で体験してきたことです。1人2曲(課題曲と自由曲)、20人×6グループを、毎月1回ずつ、ア・カペラの発表でみることを、10年以上続けてきました。ときにオーディションで、一日に100名近くを続けてみることもありました。そうなると、何はともあれ、すっきり心地よく聞かせられる歌やせりふというのは、ほとんどなくなるものです。よくて、2~3曲、全体の3%というところです。このような基準に耐えられる人はプロでも、日本にどのくらいいるでしょうか。

 

昔、銀座の「銀巴里」というシャンソン喫茶に土日に行くと、昼に2曲×4人、4ステージで32曲、メンバーチェンジして、夜に同じく32曲、一日に64曲が聴けました。心から感動するまで帰らないと決めていた私は、全曲聞いていました。日本の歌い手や声、表現を考える上で、この上ない経験となりました。そこで一日に1曲、いいレベルの声のフレーズがあればラッキー、そのうちその1曲1フレーズを歌える人の出演する日しか、行かなくなりましたが。

 

 

 

Q.「耳」の判断力を磨くには。

 

A.私は、十代では声も弱かったのですが、特に音楽的な感性において、相当「耳」も鈍かったのだと思います。トレーニングを受けて、大きな声を響かせられるようになっても、まだ「耳」よりも体の振動にとらわれていました。今、考えると、当時の私にとっては、大きな声で響かせることが歌だったのです。

 

しかし、それから三十年経った今、プロの歌い手は、私の深い声よりも私の耳のよさを頼ってレッスンにいらっしゃいます。「福島さんは生まれつき音楽の判断が的確にできたのですか」といわれると、どうもくすぐったくなります。私ほどたくさんの歌声や生の声を同じ条件で浴び続けた体験を持つ者は、世界でも少ないのではないかと思っています。音楽だけでなく芸術観を高めることです。

 

 

 

Q.一流の作品の「鑑賞レポート」を、どう書くのですか。

 

A.私が判断力を養うことができた大きな要因の一つは、音楽業界にありがちな「売れている音楽だからよい」というような評価の基準を持たなかったことでしょう。絵画や彫刻や陶芸工芸、建築など、音楽や歌以外の一流のものを、私は今にいたるまで、深く味わって生きてきました。世界を50カ国以上巡ったのもそのためです。歌や音楽に偏らないようにしてきたのかもしれません。

 

日本の中や業界の中に入ってしまうと、かえって見えなくなるということに、先人をみて気づいたのかもしれません。だからこそ、どうでもよい固定観念に捉われることがなかったのでしょう。

 

Q.なぜ、声について、表現を重視するのですか。

 

A.私は、十代後半で、音の世界が持つ可能性に目覚めました。文学から音楽へ、それは、当時の世の中の動きした。とはいえ、何も歌や音楽がすべてではなく、表現できれば、その手段として歌も音楽も詩も詞も、小説も漫画も映画も絵も同じ、と考えていました。すでにリミックス、コラボレーションしていく時代になりつつあったのです。ですから、今までも「歌わなくて語る方が通じるなら、語れ」と言ってきました。よい曲をつくれば、あとは高い声をメロディに乗せれば歌になり、ステージが持つというような、日本のアーティストと客とは、一線を画してきたのです。

 

 

Q.先生の聞き方の変化はありましたか。

 

A.始めの頃、私は声を中心にしていたため、声の力は弱くとも、感性や音感、リズム感で勝る人の才能を見落とさないよう、ピアニストをつけて歌を聞くこともしていました。しかし、やがてそれは無用になりました。プロデューサー並みのイマジネーションを持って聴くようになったからです。それでも、日本の言語表現力のおそまつさゆえに、これをゼロからトレーニングで啓発する必要を感じるようになったのです。声はともかく、「耳」の力を鍛えなくては、どうにもならないことにも気づいたのです。(♭)