発声と音声表現のQ&Aブログ

ヴォイストレーニング専門の研究所内外の質問と、トレーナーと専門家のQ&Aブログです。 あくまで回答したトレーナーの見解であり、研究所全体での統一見解ではありません。また、目的やレベル、個人差により、必ずしもあなたにあてはまるとは限りません。参考までにしてください。 カテゴリーから入ってみると便利です。 【rf :他に詳しく答えているのがあるので、それを参考にしてくださいという表記です。】 引き続き、ご質問もお待ちしています。できるだけ順次とりあげていきます。

Q.Q&Aの利用法についてですが、方法を誤解することへの言及、発声の考え方や可能性、さらに指導法、判断での矛盾など、参考になります。☆☆☆

Q.Q&Aの利用法についてですが、方法を誤解することへの言及、発声の考え方や可能性、さらに指導法、判断での矛盾など、参考になります。☆☆☆
A.はい、声の見識を深めていけると言うことで読んでいらっしゃる人が多いのですが、最終的には、勘のよい人が勘を働かせ、本意を読みとるために、使ってくださるとありがたいです。そういう稀な人には、このQ&Aさえ必要がないと思われるので、勘を磨くための体操になればと思っています。また、専門家として専門バカになるのを防いだり、頭で考える人が、さらに頭でっかちにならないように寄与できたら、ありがたいです。本来の目的は、研究所のレッスンのフォローとヴォイトレの本質への探究です。

Q.ヴォイトレは論議で、なぜ深められないとおっしゃるのですか。☆
A.ことばで述べたものに実体が伴わないからです。内容として独立しているケースに限って、同じ場での同じ経験に基づくものなら、まだ多少は論じられます。私はトレーナーと会うごとにそうしています。
レッスンやヴォイトレで身につけるものでは、内容が語られているようであって、実際は内容の正誤やよしあしでなく、その質問が取り上げられたということ、私やトレーナーがそれを述べようとしたところに意味があります。
Q&Aの現場は、トレーナーと生徒の二者間、ないし、それに私か他のトレーナーを加えた三者間にすぎないからです。とはいえ、これでも他ではありえないほど整った状況ですが。
内容を論じるためには、その状況について、あらゆる関係や条件を明示しないと、それを論として、読む人とは噛み合わないのです。
ネットなどの論の無意味については触れてきました。これを読んでいる人は、スタンスの取り方とみてください。例えば、一人の生徒に関する二人のトレーナーの相反する論を、私が理解できるのは、共通の土俵でトレーナーのことばの定義、生徒の把握、トレーナーと生徒との関係が把握できているからです。どの立場に立って論じることもできるので、正誤でなく、スタンスによって問われてくるといえるのです。

Q.いろんな人の述べているアンサーは、比較できないのですか。
A.科学の実験の授業のように、誰がみても同じであれば、その事実を基に科学的、客観的に比較できるし、分類も育成法も論議できるでしょう。しかし、一人ひとり異なる生きている人、そこでの声というものを表現へアプローチする、というレッスンに対しての判断は、少なくとも、同じ時に同じ声を、一緒にみていなければ、比較も論議も成り立ちません。

Q.このQ&Aブログが、他よりすぐれている点を教えてください。☆
A.このQ&Aは、それぞれのトレーナーが自由に発言しています。しかし、複数トレーナー制、かつセカンド、サード・オピニオンをおく研究所の方式にのっとっているつもりです。一生徒を対象にトレーナーが述べるのでなく、生徒―トレーナーA、生徒―トレーナーBなどを対象に第三者トレーナーCが述べて、より客観性を得られるようにしています。何年も何人もみている何人ものトレーナーとチームのようにすると、より客観的になるということです。
教える人や教わった人がわからないのでは、いい加減な論にしかならないのです。

Q.Q&Aが、こんなに多いと困ります。整理できません。
A.レクチャーやレッスンで答えても、ここに載せていないものは、この何倍にもなると思います。そこから整理しているわけです。ヴォイトレで生じていることをどうみるかということは、複雑かつ無限といえるほどの多くのことが含まれていることを知ってください。
トレーナーの回答といっても特定の立場、一つの立場からのものの見方にすぎません。トレーナーも十人十色、結局は、一個人での見方にすぎないのです。実のところ、論ずるにも噛み合わないことも多いのです。もし、ここに述べることに、ほぼ納得されるなら、その分、勉強不足、経験不足なのかもしれません。

Q.ヴォイトレは情報が混乱しているので、用語や定義から整理すべきと思います。
A.私も、解剖学的なところ、生理学的なところの命名は、医学書やそのあたりの論文によって引用して使用してきました。学会などで、用語もある程度定まっています。
しかし、声そのものについては、イメージ言語に頼らざるをえません。私のつくった造語は、拙書で定義しています。多くの人がそれぞれ自由に使ってしまっていることばについては、なかなか難しいと思います。
以前からの例では、地声で歌うのがよいとか悪いとか、地声の定義もなく、皆それぞれによい声を地声にしたり、喉声を地声にしたりして論じていました。最近は、ミックスヴォイスがよく取り上げられます。まったく異なる声をミックスヴォイスとそれぞれが思っていて、よしあしや発声法を論じているわけです。本人がミックスヴォイスを出していると言って出しているのですから、私たちも何とも言えません。それゆえ、私たちはそういう定まりようのない用語を使わないようにしていますが、使うしかないときもあります。使ったからといって、まずいわけでもないのです。
みえないものを定義づけるのは無理です。理解を得ていくのには、パソコンソフトでグラフのように表して命名するのが、わかりやすくはあるのですが、同時に、聞こえる世界をみえるように命名しては、失われるものが生じます。指標をとりやすいものだけが優先されるからです。

Q.ヴォイトレからみて、医学がもっとも客観的なのですか。
A.医学というのは、それを施術する医者に資格がいるという点で、最低の共通レベルをクリアしたというくらいです。ST(言語聴覚士)やMT(音楽療法士)なども学習範囲と実習数が最低、定められているということでの客観性にすぎません。
医者は、芸能、芸術などからみると、客観的、分析的であろうと欲している点で、トレーナーと似ています。しかし、究極のところで、一人の患者を一人の医者が判断するということで、主観的、総合的なものと思います。声には、文化、宗教、人生観など、何でも入ってくるのですから、医学であっても特定の人(患者)への特定のアプローチ(治療)の一つにすぎません。(♯)