Q.声や歌の検定、カラオケ教室のようなものをつくらないのですか。
A.それは、カラオケの会社などが全力でつくって、カラオケマシーンに取り込んでいるからよいでしょう。
Q.歌を判断してくれる基準や級をつけて欲しいです。
A.いわゆる基準化、日本人の好きな標準化ですか。カラオケマシンで採点する番組の優勝者は、えなりくんやテツ&トモのトモ、97、98点くらいの高得点、一方、上位に上がってこないプロ歌手で、点数が90点そこそこの方が、感動する歌を歌いますね。つまり、評価のシステムができると、おのずとそれを絶対基準に考える人たちが出てきて、それに合わせていく。結果、芸術性やオリジナリティ、クリエイティブ性は著しく劣化する、というのは、同じパターンのように思います。成績であたふた振り回されすぎる日本人は、相変わらずです。センサー技術の普及で、悪い数値一つで心身の具合まで悪くなる。悪いのでなく、数値で悪くなるのです。ヴォイトレはそういうものからもっと遠いものであって欲しいものです。
Q.日本人のパワーの源泉は失われているのでしょうか。なぜですか。
A.いわゆるハングリー精神は、豊かになってハングリーでなくなると失われますね。戦後の日本の歩みは、アメリカの物量に負けた。もの不足、食糧不足感で負けたという思いからきていました。まさにハングリーだったからです。何でも欲しい、食べたい、というのは、プリミティブでパワフルです。子供を生み、ものを買い込む―それがバブルの前あたりに、ものより心の豊さを求めるようになった。何でもたくさん、でなく、極めて限られた欲のなかで生きるようになった。攻めから守りに入った。同じようなものしか認め合わないようになって、排他的になった。それをIT技術が拍車をかけたと私はみています。
Q.排他的になりつつあるのはどうしてでしょうか。
A.私は、この3年あまり、海外のへ行かなくなった。最初は欧米、そのあとはキューバからアルゼンチンまで地球の裏、そして、ここ10年アジアと回りました。感じたことは、日本の便利さが、異質なものを受け入れていく力を奪っているということです。私が年齢で弱ったというより、これは今の日本人の普通の感覚でしょう。アジア独特の臭いも楽しめなくなってきた。なるほど成長というのは、異質を取り込んで自分の器を大きくしていくものだとわかります。今の若い人が海外渡航や結婚に積極的でないのもわかる。芸の分野において、異質なもの、わからないものを排除したら何も残らないというか、大きなものは出現しないでしょう。このあたりは、劇団(アングラ、不条理)からミュージカル化の流れのなかで述べたつもりです。今のペースでデトックス、抗菌、消臭なんてことばかりしていくと、多分、日本人が最初にパンデミックで滅亡しかねないでしょう。(rf)
Q.ヴォイトレやトレーナーは、昔と比べて変わりましたか。
A.何よりも、トレーニングで自分を変えることは、大きく異質な自分にするわけでしょう。この大きく、がなくなり、人と同じような、歌のうまい人と同じくらいに、を求めるくらいになり、トレーナーもそういう人ばかりになりつつあります。そんなことで、どうでもよい、と私には思える小さな差異にこだわるだけのレッスンになってしまうのでしょう。
Q.感性について読みました。それはどう生じるのでしょうか。 A.好きなことと危機に働くと述べましたね。もう一つは、大きな夢があることです。自分の将来にこうなりたいという努力目標があると努力のスイッチが入り、感性が今の自分のためだけでなく、将来の自分のために必要なものを求め、探り始めるのです。 Q.先生は何でも答えられてすごいと思います。 A.よく読んでみてください。私自身、あまりにきちんと答えているものが少なくて唖然とします。これは答えでなく問いかけですと言っています。こうして自分が知らないこと、答えられていないことを知る、すると、少しは次に学べるのです。それは、研究所においても、ヴォイトレが必ずしもすべての人にすべて満足いくほどにできていないことをプロとして恥と思い、克服していくためです。 Q.最近流行の褒めまくる教え方をどう思いますか。 A.私自身は、自分で満足していない結果を褒められたら嫌ですし、低くみられていると奮起するくらいですから、あまり褒めない方かもしれません。褒めるのは褒められるに値することに対して、思わず褒めてしまうのですから、ノウハウと思っていません。 今の褒める教育というのは、自己肯定して自信をもたせ、スタートラインにつかせること、それを続けさせることへのアメのように思います。映画や芝居などでは、灰皿を投げるような監督もいましたが、戦争のようなものと結びついていた時代、殺されることからみると、体罰も罵倒も軽いものでしたから、今になっての比較できません。 トレーナーについては、生徒さん自身の気づけていないよいところがあれば、指摘すること、これが褒めることだと思います。レッスンで褒められても、現場や仕事で通用しないよりは、レッスンでよしと言われたらどこでも賞賛されるほどで、自信をもってよい実力だという基準を、トレーナーは示すべきです。 もちろん、今の世の中、レッスンを休まないとか、続けて来るだけでも褒めてあげた方がよい人には、トレーナーもそのようにしているのですが。 叱るとよくなるまで育てる責任が出るのに対して、褒めて心地よくその時間を満足させると、クレームも出ないし人間的にもやさしくよい先生と思われる。相手によく思われたいのは誰でもそうなのですから、そうした逃げにもなりかねません。 ただ、本当に通用するレベルに上達させることにアゲアゲでは無理、ムチも必要です。 Q.どうしてたくさんのトレーナーをコントロールしているのですか。 A.これまで述べたように、私がトレーナーを使っているのでなく、今は、私がいらないほどにトレーナーに補われています。ありがたいことです。熱心な生徒、長く続ける生徒、プロやすぐれた生徒とのレッスンは、トレーナーにとって新鮮で楽しいものです。また、そうでない生徒さんでも、変化し、世に出ていく(仕事や舞台に役立っていくということ)のは、トレーナーの喜びでもあります。 Q.プロに接するときに、どう思っていらっしゃいますか。 A.「その程度で満足してはよくない」「もっと可能性のあるところはどこなのか」「さらなる絶対的な強みとなるのは…」実力のないプロに対しては、「バランスをもっと確実にするには」「丁寧につなぐには」「アラを目立たなくするには」などでしょうか。「より効果の上がるポイント」などです。「人にアピールできるニュアンスは」などを捜すこともあります。